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【読書感想】ミシェル・ウエルベック著「素粒子」人間はなぜ幸せになれず苦しむのか?が描かれているすごくおもしろいSF長編小説

ミシェル・ウエルベック著「素粒子

 

 ミシェル・ウエルペック著「ある島の可能性」を個人ブログで知り、読んでみてあまりにもおもしろかった。

 

oulaw.hatenablog.com

 

 

なので、ミシェル・ウエルベックの他の作品も読んでみることにした。

著者の代表作と言われている「素粒子

世界30ヶ国以上に翻訳されていて、ドイツでは映画化されてるそう。

 

内容(「BOOK」データベースより)

人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作。文学青年くずれの国語教師ブリュノ、ノーベル賞クラスの分子生物学者ミシェル―捨てられた異父兄弟の二つの人生をたどり、希薄で怠惰な現代世界の一面を透明なタッチで描き上げる。充溢する官能、悲哀と絶望の果てのペーソスが胸を刺す近年最大の話題作。

   

すご〜くおもしろかった!

 

主人公の男兄弟二人の一生を淡々と描きながら、ちょいちょい哲学的な考えを差し込んでいる。

 

主人公たちと、その人生で出会った女性たち、全員が幸せになりたいけど幸せになれない。自業自得というわけでもなく、運が悪かったからというわけでもなく、政治や宗教のせいでもなく、"仕方がない"と書かれている(とぼくは感じた)。

 

そこから逃れて幸せになるために、クローン技術を駆使して新人類を誕生させることが、最後に予言のようなかたちで書かれている。簡単に言うと、遺伝子レベルで同じだから個性がないというか、個性の意味がない、だから争いも起きないし、なんで自分だけが…と他人と比較して苦しむ必要がない、そんな新人類だ。

 

そしてそんな新人類は苦しみなく幸せに生きることができるのか?について書かれたのが、冒頭にあげた「ある島の可能性」という本だ。

 

☆ ☆ ☆

 

話を「素粒子」に戻して…

西欧文化の変遷を人間の深い業として皮肉たっぷりに描いているが、西欧文化に限らず日本でも全く同じじゃないかとすごく共感できた。例えば…

 

歴史上、こうした人間もまた確かに存在した。一生のあいだ、自分の身を捨てて愛情だけのために働きづめに働いた人たち。献身と愛の精神から、文字どおり他人にわが命を捧げ、それにもかかわらず自分を犠牲にしたなどとは思わず、実際のところ献身と愛の精神ゆえに他人にわが命を捧げる以外の生き方を考えたこともない人たち。現実には、そうした人たちは女性であるのが普通だった。

 

文化の流れとしての話もあるけど、男女という性別についてもこの本は「なんとなく感じているけどはっきり言わないでくれよ〜」ということをはっきり書いてくれている。

 

三十年たっても、彼は結局同じ結論に到るのみだった。何と言っても、女の方が男より善良なのだ。女の方が優しく、愛情に満ち、思いやりがあって温和。暴力やエゴイズム、自己主張、残酷さに走る度合いが男よりは低い。そのうえより分別があり、頭がよく、働き者である。
結局のところ、とミシェルはカーテンに射す陽光のゆらめきを眺めながら考えた。男は何の役に立っているんだろう。
<中略>
だが、数世紀来、男はもはや明らかにほとんど何の役にも立っていないように思える。

 

 ぼくもなんとなくこの"ほとんど何の役にも立ってない"に共感できてしまう…

 

そして、子供を持つことの意味についても、バッサリと言っている。

 

子供たちはある状態、規則、そして財産の相続を意味していた。封建的階層においてそうであっただけでなく、商人、農民、職人、そして事実上は社会のあらゆる階級においてそうであった。今日、そうしたすべてはもはや存在しない。サラリーマンで、持ち家もないならば、息子に遺すものなど何もないんだから。息子に伝えるべき職業などないし、そもそも息子が将来どうなるのかさえわからない。いずれにせよ自分の時代の規則は息子にとっては有効でなくなり、息子は別の世界で生きるだろう。絶えざる変化というイデオロギーを受け入れることは、一人の人間の人生が厳密に一代限りのものとなること、過去や未来の世代が自分にとっていかなる重要性も持たなくなることを受け入れることだ。そうやってわれわれは生きているんだし、今日、子供を持つことは男にとって何の意味もない。

 

これも共感できる。「だから子供はつくるべきではない」とは思わないけど、少なくともこの内容を脇によけて子供をつくることの社会的意義を議論するのはずるいと思う。 

 

女性の生きづらさもしっかりしんどく描かれている。

 

たいていの女たちは刺激に満ちた青春時代を過ごし、男の子やセックスのことばかりに興味を抱く。それから少しずつ飽き始め、またを開くのがいやになり、ヒップを強調するような下着を身につける意欲が失せる。優しさのある関係を求めて見出せず、情熱を求めながら本当に情熱を感じる力はもはやない。そのとき女たちにとって困難な歳月が始まる。

 

老いるという時間的支配から逃れられない人間の苦しみだ。苦しい…

 

続いては、外見が醜い女性の描写。

 

自分の外見に屈辱を感じるあまり、彼女は服を脱ごうとしなかった。そのかわりに最初の晩、<中略>ブリュノに申し出た。自分の外見云々は口に出さず、ピルを飲んでいないからと言い訳して。「本当よ、その方がいいの…。」彼女は決して外に出ず、毎晩部屋に閉じこもっていた。ハーブティーを淹れて飲み、ダイエットを心がけていた。何度かブリュノは彼女のパンタロンを脱がせようとした。彼女は体をこわばらせ、何も言わず乱暴にその手を押しのけた。

 

ここの場面はそうとう切ないというかしんどい。このように引きこもっている女性は世界中にたくさんいるだろう。もちろん男性もたくさんいるはずだ。

 

 

この本には、いわゆる「フリーセックス」ができる特殊な地域が描かれている。書かれている内容の詳細が事実がどうかはわからないが、実在した場所で、著者も実際に体験したらしい。その部分を一部引用。

 

もちろん人は死ぬものであり、死を見越してこの世の快楽に厳しい目を向けることもできよう。そうした極端な立場を退ける限りにおいて、マルセイヤン=プラージュの砂丘はー私が示したいのはまさにこの点なのだがー、耐えがたい精神的苦痛を誰にも引き起こすことなく各自の快楽を最大限に伸ばすことをめざす、ヒューマニズム的提言の場として申し分のないものである。

<中略>

幻想をむやみに激化させる場としてではなく、反対に性的問題のバランスを取り戻させる装置、正常な状態の回復をうながすーもっぱら<善意>の原理に則ったー試みの媒介地帯とみなさせるべきである。

 

この特別な地域で起きたある意味幸せなひとときがこの本の中に描かれていて、かなり魅力的に感じた。セックスができるできないというよりも、精神的に安楽な状態でいられることに惹かれた。

ぼくは、こういうものを一律"カルト的なもの"とカテゴライズし、「あやしい」「あぶない」と言って避けてきた。どんなものかを全く知ることなくシャットアウトしてきた。「本当にあやしいのか?」「本当にあぶないのか?」「なぜそれが設立されたのか?」と考えることは全くなかった。今は、それはそれで一種の偏見であり思考停止ではないか?と感じてる。

 

☆ ☆ ☆

 

こんな風に、物語として「これからどうなるの?」と引っ張ってくれつつ、いろいろ考えなきゃいけない、あるいは認めなければいけないことを明示してくれる作品。

 

人間の根源的な苦しみが描かれているけど、なぜかぼくは力をもらえた。不思議と「生きたいし幸せになりたい」という気持ちが湧いた。この不思議な力は、太宰治の「人間失格」に近いものがある。あくまでぼくの個人的な感想だけど。

 

この作品のスケールが大きすぎて、こんなとっちらかった感想、紹介になっちゃったけど…

とにかくおもしろいのは間違いない。それだけは断言できる。 

  

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とりあえず…

今日は生きるつもり。

 

 

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